こんにちは、ヨハニです。
※本ページはプロモーションを含みます。
ここまで、
人の心を読む。だから、私は疲れる。
というところから始まり、
「疲れる」にもいろいろあること。
そして、
感情に引き込まれないようにしながら、自分で対応を選ぶこと。
について考えてきました。
では、私は何を基準に、その対応を選んでいるのでしょうか。
ここで、少し変なことを考え始めました。
私が対応を選ぶ一番の理由は、
自分のためです。
「家に帰ってまで疲れたくない」
「自分の人生に、その出来事を持ち込みたくない」
だから、自分なりに良い対応を選ぶ。
ところが、そんなことを考えているうちに、
「あれ? これって、別の角度から見たら『愛』なんじゃないか?」
と思い始めたのです。
1.私は、相手のために「愛」を考え始めたわけではない
最初に、ここははっきりさせておきたいと思います。
私は、
「人には愛を持って接するべきだ」
と思って、この話を始めたわけではありません。
もっと現実的です(笑)。
疲れたくない。
これが出発点です。
人と関わって、嫌な感情を抱えて、そのまま家に帰る。
そして家に帰ってからも、そのことを考えてしまう。
それが嫌だ。
だったら、
「現場で、自分なりに納得できる対応をしておこう」
と思った。
まずは、それだけです。
相手のために自分を犠牲にしようと思ったわけではありません。
むしろ逆です。
自分の人生を守るためです。
2.でも、「自分のため」に選んだ対応が、相手のためになることもある
ところが、ここが面白いところです。
例えば、相手に対して腹が立っている。
「この人、今こんなことを考えているんじゃないかな」
と感じている。
本当は、そのまま距離を置いてもいい。
でも、
「ここは一言、心ある声掛けをした方が、自分も後味がいいな」
と思う。
だから声をかける。
それは、相手のためだけではありません。
自分が家に帰ってから、その場面を引きずらないためでもある。
でも結果として、その声掛けが相手にとって救いになることもあるかもしれない。
そう考えると、
「自分のため」と「相手のため」は、必ずしも反対ではない。
むしろ、重なることがある。
ここが、今回の私の気づきです。
3.「愛=犠牲」ではないのかもしれない
私は、「愛」と聞くと少し大げさに感じるところがあります(笑)。
そして、
「愛=自分を犠牲にすること」
というイメージも、あまりしっくりきません。
例えば、子どもたちのために自分の時間を使う。
周りから見れば、
「自分の時間を犠牲にして、子どもたちのために頑張っている」
ように見えるかもしれません。
でも、本人としては、
「別に犠牲なんて思っていませんけど」
ということもある。
もちろん、時には「今日は疲れたな」と思うこともあります(笑)。
それでも、
「子どものために時間を使ってあげたい」
と思って、自分で選んでいる。
そこに、必ずしも「犠牲」という感覚はありません。
だから私は、
愛=犠牲
ではないのではないかと思っています。
むしろ、
愛=選択
と考えた方が、自分にはしっくりきます。
もちろん、いろいろな『愛』があるのもわかっています。
4.「何をするか」より、「どちらを向いているか」
そして、もう一つ気づいたことがあります。
愛というのは、
「何をしたか」
だけではないのかもしれません。
時間を使った。
労力を使った。
何かを我慢した。
そういう「消費したもの」だけで考えると、
「どれだけ犠牲になったか」
という話になってしまいます。
でも、本当は、
その人や、その出来事を、どんな心持ちで見ているのか。
こちらの方が大きいのではないでしょうか。
同じことをしていても、
「仕方がないからやっている」
のと、
「自分がこれを選びたいと思った」
のでは、意味が違う。
子どものために時間を使うことも、
誰かに声をかけることも、
仕事で相手の立場を考えて対応することも、
その行為だけを見れば同じように見えるかもしれません。
でも、
自分の心がどちらを向いているのか。
そこには違いがある。
私は最近、
それを「心のベクトル」と呼ぶと分かりやすい気がしています。
自分のためだけに向いているのか。
相手にも向いているのか。
その両方なのか。
そして面白いことに、
自分の人生を守ろうとして選んだ対応が、結果的に相手にも良い方向を向いていることがある。
そこに、私は「愛」の一部を感じるようになりました。
今回、気づいたこと
私が「愛」について考え始めたのは、
「人を愛そう」
と思ったからではありません。
もっと身近で、もっと自分勝手なところから始まっています(笑)。
家に帰ってまで疲れたくない。
だから、
自分が納得できる対応を選ぶ。
その選択を積み重ねる。
もし、その選択が結果的に相手のためにもなっているのなら、
「あれ?」
と思う。
これって、愛と呼んでもいいんじゃない?
私は、そんなふうに考え始めました。
愛は、必ずしも犠牲ではない。
誰かのために自分を削り続けることでもない。
「私は、こうすることを選ぶ」
という、自分自身の意思。
その中にも、愛と呼べるものがあるのかもしれません。
そして、その選択の中に、
相手をどう見るのか。
どちらを向いて対応するのか。
という「心のベクトル」がある。
そう考えると、「愛」という言葉が、少しだけ身近になってきました。
ただ、ここでまた一つ問題があります。
自分のために選んだ「愛」が、
もし自分を苦しめ始めたら?
もし、
「もう、これ以上はしんどい」
と思うようになったら?
私は、それでも同じ選択を続けるのでしょうか。
……たぶん、違います。
そのときは、
もう一度、選び直せばいい。
そんな気がしています。
そして、それを考えていると、
「愛」と「自分を守ること」は、意外と近いところにあるのかもしれない。
そんなことを思うようになりました。

