こんにちは ヨハニです。 ※本ページはプロモーションを含みます。
本日は塩です。昔の日本食を調べているとよく塩が出てきます。昔は特に食物を貯蔵する
という意味合いが強かったようです。日本人だけではないと思いますが生活とは切っても切れない
関係でしょう。そんな塩のアレコレをご紹介させていただきます。
1 日本で初めての塩づくり

縄文時代の後期と言われています。
農耕や稲作が始まった事と関係しているのではないかと言われています。
というのも狩猟を主にしていた頃は肉や血に含まれている塩分で充分だったので、あえて
塩を摂取する必要はありませんでした。
そうして、農耕が始まった縄文時代後期には塩づくりが始まったという事です。
2 初めての塩作づくり~製法~
縄文時代後期には製塩専用の土器(製塩土器)があったようで、発掘されているようです。
海水を汲んできて海藻にかけて塩分濃度の高い海水を作る。海水、塩分がついた海水を
焼いて灰にする。その灰を海水と混ぜて布でこします。布でこした海水を製塩土器で煮沸
します。これを『土器製塩法』と呼びます。平安時代頃まで行われた製塩法だそうです。
納豆もそうですが最初に発見した人は天才ですね。偶然なのかもしれませんが塩の発見も感動的だった
のではないでしょうか。
特に日本は岩塩がないのと湿度が高いという事で海に囲まれているからと言って、塩を手にいれ
やすいとは言えないようですね。
3 なぜ気づいたのか!?

先ほどもご紹介させていただきましたが狩猟から農耕へと生活スタイルが変化していくに従って食生活も変わり
塩分摂取が困難になってきました。今、説明を聞くと“なるほど”と思いますが当時の方は実感して原因が“塩分だ!”と
なぜおもったのでしょうか。塩分が足らないから塩分を摂取しないと!と。そういった栄養面からのアプローチで塩分を
求めたのか料理にアクセントがなく不満だったので塩気を求めたのか。もしくは、また別の理由があったのか。
わかりません。野菜などの植物を多く摂取するようになると“ナトリウム”と“カリウム”のバランスが変わり体が塩分不足に
なり塩気を求めるようになったのかもしれません。あくまでも推測ですが。
縄文人に聞いてみたいところです……
4 戦国時代の塩
『敵に塩を贈る』
戦国時代の話で上杉謙信が敵対している武田信玄に塩を送ってあげるという話です。
当時の日本も主に海から塩を作っていた時代。主に甲斐(今の山梨県)地方を支配していた武田信玄。領地に海に面した所がありませんでした。その為、どこからか仕入れてくる必要があり交易を断絶されると入手経路がなくなりお手上げ状態になってしまいました。武田信玄の宿敵であった上杉謙信は日本海に面した地域を主に支配していた事もあり塩は自国で作る事が出来ました。また、話はそれますが海に面しているという事は“湊”もあり交易の面でも秀でていました。そんな相反する両者。塩がない武田信玄と塩を持っている上杉謙信。
一時、武田信玄は上杉謙信だけでなく周りの諸勢力とも敵対しており四面楚歌の状態でした。戦いが上手いと言われていた武田信玄でも塩を止められると打てる手がなかったのか大変困窮したでしょう。
今では苦境にある敵を助ける事など、諺として使われる事が多いですね。
5 塩づくりが盛んだった地域『十州塩田(じっしゅうえんでん)』
十州塩田とは瀬戸内海周辺の10か国です。播磨、備前、備中、安芸、周防、長門、阿波、伊予、讃岐の10か国です。こういった十州塩田で行われていた製塩法は入浜系の塩浜だったので潮の干満を利用して海水を自動的に塩浜へ導入する方式でした。江戸時代後期になると日本全体の塩の生産量の8~9割を占めていました。江戸時代後期にもなると古来の塩製法も含めて様々な方法で日本中の80%から90%を生産するまでになりました。
6 まとめ

日本では昔から海からでしか塩を生産する事が出来なかったようです。世界では『岩塩』であったり『湖塩』であったりと
塩を手に入れる方法は海から以外にもあったようです。今でもスーパーなどで目にする『岩塩』は外国産が多いのはその為ですね。
海から作られている塩はミネラルたっぷりなイメージがあって体に良さそうなイメージがあるのは私だけでしょうか💦
私たちの生活には欠かせない塩。血圧の関係でどうしても悪役のようにされてしまう塩。今一度、塩について考え自分自身の考えを持ち、こだわりをライフスタイルに取り入れてみてはどうでしょうか?

最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。