ヨハニログ

昔(江戸時代)の日本人はどんな教育をうけていたのか!?

1 直近の日本の教育は?

私には小学生と幼稚園児の子供がいます。

どうしても、教育機関について興味があり(切実)様々な情報が入ってきます。

例えば、中学生と言えば部活ではないでしょうか?

私の中では中学校には部活をしに行っていると言っても過言ではありませんでした。

授業は二の次でした。と言っても授業もちゃんと真面目に受けていました。

それでも重点は部活でした。私は運動部に所属していたので授業の後に思いっきり体を動かして(当時は意識はしていませんでしたが)ストレスを発散していました。部活があったからこそ勉学にも励む(!?)事が出来たと今となっては思います。

皆さん、ご存じでしょうか。最近の中学校は部活が廃止になっていく動きなんですよ。市町村に経済的な余裕があれば学校ではなく外部機関に委託して部活を維持する、といった具合で。

……いやいや!何のために中学校に行くんですか!?という事ですよ!

私に言わせると!!

もちろん、今までは先生の犠牲によって成り立っていた部活ですので先生には文句は言えません💦

にしても、ですよね。

誰に文句を言えば良いのやら。今までが異常で恵まれていただけだったという事でしょうか。

というように、昨今の教育環境においては昔と違って様々な点でダイナミックに変化しているなと感じる今日この頃です。

2 このままで大丈夫?日本の教育環境

タイトルは大きく出ましたが💦

私としては切実な問題です。

自分の子供達がこのような環境変化において成長していけるのであろうか?

先入観かもしれませんが少なくとも私が与えられていた学校の環境(部活)においては劣っている?と感じるからです。

もちろん、総体的に見ていかないとダメなのはわかっているのですが💦

しかし、これはあくまでも私が受けた教育環境と比較してです。

それでは気になってくるのが昔の日本人が受けた教育とは?どんなものだったのでしょうか?

3 寺子屋

皆さん、一度は聞いたことがあると思います。

知れば知るほど面白いシステムであり、なかなか良く出来た教育機関だなと思います。

寺子屋とは一般庶民が学ぶ私的教育施設です。

ポイント

①先生の『師匠』と生徒の『筆子』で形成されている。

②だいたい9歳~18歳の期間、学ぶ。決まりはない。

③公文式のようにマンツーマンに近い形式。

④学習レベルやスピードは個人の能力に合わせて。

⑤入学時期や卒業時期も人それぞれで決まりはない。

⑥1寺子屋当たり、筆子の人数は10人~100人。

⑦教材も決まりはなし。人それぞれです。江戸時代においては将来の職業はだいたい決まっていたので、将来就く予定の職業に必要な勉強をしていたようです。

⑧漢字や人名、地理、歴史や古典を学ぶ事もあったようですが、メインは『往来物』でした。

往来物とは商人や農民などその職業に特化した事が手紙形式で書かれた教材です。

初等教育だけでなく専門学校的な内容も教えていたかんじでしょうか。

⑨各地に『筆子塚』なるものがある。

師匠は現在の教育機関の先生方とは違って筆子には一生の師匠になる事が多かったようです。

そんな、師匠を慕った筆子達が師匠が亡くなった時に建てたのが『筆子塚』でした。

4 江戸時代、日本の識字率

各国の教育水準をはかる数値として『識字率』ってよく聞きますよね。

そこで、寺子屋が盛んであった江戸時代の日本人の識字率をみていきたいと思います。

※ちなみに識字率とは文字を読み書きして理解できる割合の事です。

〇日本…60%~80%

〇イギリス…20%~25%

とイギリスと比べて一目瞭然だと思います。

江戸時代の日本の武士の識字率はもっと高かったと言われています。

データのとり方によって変わるので詳細は少し違ってくるかもしれませんが、少なくとも江戸時代の日本人の識字率は諸外国と比べると高かったと言えるのではないでしょうか。

5 閑谷学校

さて、上記でご紹介させていただいたのは私的な教育施設である『寺小屋』です。

今回は公的な教育施設をご紹介させていただきます。

江戸時代に諸藩が作った公的教育施設である藩校を見ていきたいと思います。

その中でも有名な『閑谷学校』についてご紹介させていただきます。

閑谷学校は江戸時代前期に岡山藩主池田光政によって開設された日本最古の庶民のための学校(藩校)です。余談ですが岡山藩士の学校(藩校)として開設された『岡山学校』の方が開設時期は先です。

歴史…開設から330年余。

生徒…武士だけでなく庶民の子弟。他藩の子弟。

期間…8歳頃~20歳頃

教育内容…儒学の正統である朱子学

※朱子とは

孔子(紀元前500年くらいの中国を生きた)が始めた儒学の一派。

朱熹(しゅき)(1200年くらいの中国を生きた)が儒教の礼を強調して解釈。それと他の同じような考えなどをまとめて完成させたのが朱子学です。それって朱熹学じゃないの?と思われがちですが、理由はこうです。朱(熹)先生(子)の学問(学)で『朱子学』というわけです。

閑谷学校は今も建物が残っており、学校講堂は国宝となっています。観光地としても人気スポットとなっています。

6まとめ

江戸時代を考えてみても教育に関しては損得度外視で取り組まれている方々が多いように感じます。

藩校などは将来を見据えての先行投資的な部分も大きいかもしれませんが、そんな長期計画を実行に移せるような先を見通す目と使命感を当時の方々には感じてしまいます。特に閑谷学校のように他藩の子弟を教育するという事は藩主(池田家)にとて直接的・短期的には意味がないように思ってしまっても仕方ないと思います。そこには日本全体を案じる気持ちと教育を受ける事が出来た人の未来を信じる気持ちが藩主(池田家)にはあったのではないでしょうか。

今も昔も『教育』に関しての重要性や将来性、、人々の幸福度や充実度など様々な事柄は変わりませんね。

学ぶ側からしても目標を定める必要があります。ただ単に知識を詰め込むだけでは学びは薄らいでしまうでしょう。

しかし幼少期の子供たちに『学ぶ目的や目標』を求めるのは大変、酷な事です。ですので、周りが上手にサポートする必要があるでしょう。

今回、私は子供たちの学びについて再度、考えさせられました。また、自分自身の学びにも古人の知恵を活かしていきたいと思いました。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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