こんにちは、ヨハニです。
前回は、「違い」と「優劣」は同じものではないのかもしれない、というお話をしました。
では、もし私たちが「違い」を「優劣」として見続けると、何が起こるのでしょうか。
振り返ってみると、私の心はいつも何かと比べ続けていました。
今回は、その「比較する心」について考えてみたいと思います。
1 優劣で見る世界には、終わりがない
優劣という物差しで世界を見るようになると、比較は終わりません。
仕事では、もっと成果を出している人がいます。
収入では、もっと稼いでいる人がいます。
知識でも、経験でも、体力でも、必ず自分より優れて見える人がいます。
逆に、自分より苦労している人や、経験の少ない人を見ることもあります。
つまり、比較の世界には、いつも「上」と「下」が存在します。
だから安心は長続きしません。
昨日安心できたことも、今日は誰かとの比較で揺らいでしまいます。
2 優越感と劣等感は、同じ場所から生まれる
以前の私は、劣等感ばかりが苦しみの原因だと思っていました。
でも、少し見方が変わりました。
優越感も劣等感も、どちらも「優劣」という同じ物差しから生まれています。
「自分の方が上だ」と感じる安心は、誰かに追い越されれば簡単に崩れてしまいます。
だから、優越感に支えられた自信は、とても不安定です。
結局、優劣の世界にいる限り、心はいつも順位を気にしてしまうのかもしれません。
3 比べていたのは、相手ではなく自分だった
不思議なことに気づきました。
私は誰かを見ているようで、本当は自分ばかり見ていました。
「あの人はすごい。」
その瞬間に考えていたのは、
「それに比べて私は……」
ということでした。
相手を見ているようで、自分の価値を測る材料にしていただけだったのです。
そう思うと、比較とは相手との勝負ではなく、自分の心の中で起きていた出来事だったのだと感じました。
4 心が求めていたのは、勝つことではなかった
もし、心が本当に求めていたものが「一番になること」だったなら、どこかで満たされていたはずです。
でも、実際にはそうではありませんでした。
一つの目標を達成しても、また次の比較が始まる。
認められても、もっと認められたいと思ってしまう。
私が求めていたのは、勝ち続けることではなく、安心して自分でいられることだったのかもしれません。
そのことに気づいたとき、優劣という物差しを少し手放してみたいと思うようになりました。
まとめ
優劣という物差しは、自分の価値を測るには便利なのかもしれません。
でも、その物差しで生きている限り、比較は終わりません。
上を見ても、下を見ても、心は落ち着かないのです。
もしかすると、私たちが求めていたのは「誰かより上になること」ではなく、違いを違いとして受け入れ、自分らしく生きることだったのかもしれません。
次回は、違いを受け入れられるようになると、人との関わり方はどのように変わっていくのか、一緒に考えてみたいと思います。

