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刺激を求める習慣は、不安も連れてきていたのかもしれない①~刺激を求める心は、静けさを怖がっていた~171

1 心はいつも「何か」を探していた

以前の私は、何も起こらない一日をどこか物足りなく感じていました。

もちろん、トラブルを望んでいたわけではありません。

しかし心は、良い出来事も悪い出来事も含めて、「何か」を探し続けていたように思います。

朝起きれば今日一日の出来事を予想し、仕事では次に起こる問題を考え、気づけば心は常に動き続けていました。

静かな時間があっても、心だけは静かではなかったのです。

2 刺激の多い毎日が当たり前になっていた

今の時代は、刺激に囲まれています。

スマートフォンを開けば新しい情報が流れ、ニュースやSNSでは次々と話題が入ってきます。

仕事でも、一つ終わればまた次の課題がやってきます。

そんな生活を続けているうちに、刺激があることが「普通」になっていました。

だから何も起こらない時間よりも、何かが起こる時間の方が自然に感じられていたのかもしれません。

3 静かな一日を受け入れられるようになった

最近は、以前とは少し感覚が変わってきました。

朝起きても、「今日は何も起こらない一日かもしれない」と自然に思える日があります。

以前なら、その静けさを退屈だと感じていたかもしれません。

しかし今は、その何も起こらない時間に安心感を覚えます。

心が少しずつ、刺激ではなく穏やかさを受け入れられるようになってきたのだと思います。

4 不安は刺激と隣り合わせだったのかもしれない

振り返ってみると、刺激を求める心と、不安はどこか似ているように感じます。

どちらも「何かが起こること」を前提にしています。

もちろん、不安の原因は一つではありません。

それでも私の場合は、刺激を求める習慣そのものが、不安を手放せない理由の一つだったように思います。

だから今、穏やかな一日を穏やかなまま受け止められるようになったことは、小さな変化ではありますが、自分にとっては大きな前進です。

まとめ

以前の私は、刺激のある毎日が普通だと思っていました。

しかし、その刺激を求める習慣が、不安まで一緒に連れてきていたのかもしれません。

最近は、何も起こらない一日に安心できるようになってきました。

穏やかな時間は、退屈ではありません。

むしろ、心が少しずつ落ち着きを取り戻してきた証なのかもしれません。

次回は、「安心は退屈ではなく、心が健康になった証なのかもしれない」というテーマで、この気づきをさらに深めていきたいと思います。

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